ホーム 芸能ニュース・ゴシップ 【由来を解説】綱ノ富士の読み方は「つなのふじ」!綱島と千代の富士が名前のルーツ

【由来を解説】綱ノ富士の読み方は「つなのふじ」!綱島と千代の富士が名前のルーツ

朝倉 律 朝倉 律 • 更新: • 公開: • 読了約 14 分
目次

綱ノ富士の読み方は、「つなのふじ」です。

この四股名は、白川裕二郎が自分の地元と憧れの横綱にちなんで考えたものです。単に相撲らしい響きを持たせた名前ではなく、本人の思い出と目標が組み合わさっています。

「綱」は横浜市の綱島、「富士」は千代の富士から

四股名の由来となったのは、次の2つの要素です。

- 綱: 白川裕二郎の地元である神奈川県横浜市港北区の綱島。
- 富士: 幼い頃から憧れていた大横綱・千代の富士。

白川は両親と一緒に大相撲中継を見る家庭で育ち、千代の富士を応援していました。本人も千代の富士のような力士になりたいという思いを持っていたと、スポニチの2026年4月の報道で紹介されています。

2026年4月16日放送のBSフジ「飯島直子の今夜一杯いっちゃう?」でも、この由来を改めて説明しました。

地元への愛着を表す「綱」と、憧れの力士から受け継いだ「富士」。2つを組み合わせた結果、横綱を連想させる堂々とした四股名になりました。

綱ノ富士は千代の富士と同じ横綱だった?

ここは誤解しやすいポイントです。

千代の富士は実際に横綱まで昇進した名力士ですが、綱ノ富士は白川裕二郎が現役時代に使用した四股名です。

名前に「富士」が含まれているからといって、千代の富士と同じ番付や実績を持っていたわけではありません。

白川が憧れを込めて名付けたものであり、実際の番付上の最高位は序二段99枚目でした。

【大相撲の経歴】白川裕二郎は朝日山部屋でどんな力士だった?

綱ノ富士

白川裕二郎が相撲界に入ったのは、高校卒業後の1995年です。

入門先は朝日山部屋。現在の芸能活動からは想像しにくいものの、実際に大相撲の力士として土俵に立っていました。

朝日山部屋への入門は柔道がきっかけ

2019年のOCEANSのインタビューによると、白川は高校卒業後に柔道の道場へ通っていました。

その道場に関係する治療院で相撲部屋関係者の目に留まり、スカウトされたことが入門のきっかけです。

もともと相撲への関心があり、力士になれば母親を喜ばせられるのではないかという思いもあったといいます。

こうして朝日山部屋に入門し、1995年9月場所に本名の「白川」で初土俵を踏みました。

最高位は序二段99枚目

白川裕二郎の力士としての実績を整理すると、次のようになります。


最高位は序二段99枚目。幕内や十両に昇進した力士ではありませんが、実際に番付に名前を載せて相撲を取っていた経歴があります。

力士としての活動期間が短かったため、芸能界での白川の姿しか知らない人には意外に感じられる可能性があります。

【引退理由の真相】綱ノ富士はなぜ1年で相撲を辞めたのか?

綱ノ富士の引退理由は、けがによる身体的な問題です。

2018年のデイリースポーツの報道では、白川にはもともと腰痛があり、力士として稽古を続けるなかで症状が悪化したことが紹介されています。

2019年のOCEANSのインタビューでも、本人はけがに悩まされ、1年で引退した経緯を振り返っています。

引退は実力不足だったのか?

ここは慎重に理解したいところです。

白川が引退したのは、1996年。入門からわずか1年ほどしか経過していません。

最高位は序二段99枚目であり、関取への昇進を果たす前に現役生活を終えています。

しかし、短期間で引退したことを、そのまま相撲の才能がなかったという意味に結び付けるのは適切ではありません。

相撲は体重や筋力だけでなく、腰、膝、足首などに大きな負担がかかる競技です。特に日々の稽古を継続できる身体の状態は、力士として活動するうえで欠かせません。

白川の場合も、腰の問題が引退につながったと報じられています。

105キロまで増量した力士時代

もう一つ興味深いのが、当時の体重です。

2022年6月21日、白川はフジテレビ系「ポップUP!」に出演し、力士時代の食生活を振り返りました。

当初は75〜76キロほどだった体重を増やすため、毎日ご飯を一升食べていたと明かしています。

その結果、体重は105キロまで増加しました。

現在の白川はスリムな体形で知られていますが、力士時代には現在とは大きく異なる体格だったのです。

比較項目 力士時代 現在の公式プロフィール
体重 約105kg 74kg
身長 当時の公称値には資料差あり 185cm
食生活 毎日ご飯一升 現在の詳細は非公表
身体的特徴 力士として増量 スリムな体形

この経験は、白川にとって単なる体重の変化ではありません。力士として求められた身体づくりから、俳優や歌手として求められる身体表現へと、活動分野が大きく変わっていったことを示しています。

【俳優から純烈へ】白川裕二郎が芸能界で成功するまで

相撲を引退した白川裕二郎は、その後、俳優の道へ進みます。

転機となったのは母親の後押しでした。

OCEANSのインタビューでは、目標を失っていた白川を見かねた母親が劇団俳優座に書類を送ったことが、俳優への道につながったと語られています。

2002年「忍風戦隊ハリケンジャー」で俳優デビュー

2002年、白川はテレビ朝日系の特撮ドラマ「」に出演。

演じたのは、霞一甲(かすみ いっこう)/カブトライジャー役です。

戦隊シリーズでの活躍を通じて俳優としての知名度を高め、その後もテレビドラマや映画、舞台などに活動の幅を広げていきました。

主な出演歴には、次の作品があります。

- 「忍風戦隊ハリケンジャー」霞一甲役
- 「牡丹と薔薇」柏木雅也役
- NHK大河ドラマ「功名が辻」平野長泰役
- NHK大河ドラマ「天地人」中条景泰役
- 映画「スーパー戦闘 純烈ジャー」

これらは所属事務所の公式プロフィールにも掲載されている出演歴です。

2007年に純烈を結成、2010年にメジャーデビュー

白川の人生を大きく変えたのが、歌謡コーラスグループ・純烈との出会いでした。

リーダーの酒井一圭は、白川の歌声に魅力を感じ、グループへの参加を誘いました。

その背景には、母親に親孝行したいという白川の思いがありました。

2007年に純烈が結成され、白川は初期メンバーとして参加。2010年にはメジャーデビューを果たします。

当初から大きな成功を収めたわけではありません。健康センターやスーパー銭湯などでの地道な活動を重ね、少しずつファンを増やしていきました。

2018年には念願だったNHK紅白歌合戦への初出場を実現。その後、8年連続の出場を達成しています。

相撲での挫折、俳優としての挑戦、そして歌手としての成功。白川のキャリアは、一つの職業に固執せず、新しい場所で自分の可能性を探してきた歩みでもあります。

【2026年最新】白川裕二郎の現在は?純烈卒業と2027年以降の活動

2026年11月4日時点

2026年の白川裕二郎を語るうえで欠かせないニュースが、純烈からの卒業発表です。

2026年6月8日、所属事務所G-STAR.PROと純烈の公式発表によって、白川が2027年3月31日をもってグループを卒業することが明らかになりました。

約20年間にわたる純烈での活動に区切りをつける、大きな転換点です。

純烈卒業の理由は母親の他界と本人の気持ちの変化

2026年6月8日の会見で、白川は卒業を決めた背景を説明しました。

テレビ朝日の報道によると、卒業の意向は約5年前から考えていたものの、2025年10月に母親が亡くなったことが、決断に影響したといいます。

母親への親孝行を大きな目標として歌い続けてきた白川にとって、その存在は活動を続ける大きな原動力でした。

会見では、純烈を続けるモチベーションが以前とは変わり、今の気持ちのまま活動を続けることはよくないと考えた旨を説明しています。

2027年3月31日で純烈を卒業、その後はどうなる?

ここで重要なのは、純烈卒業と芸能界引退は別の話だということです。

所属事務所の2026年6月8日付公式発表では、白川は卒業後もG-STAR.PROに所属し続けると明記されています。

また、本人も心身を充電したうえで、純烈としてではなく白川裕二郎として、再びファンの前で歌いたいという意向を示しています。

純烈そのものが解散するわけではない

白川の卒業発表を受け、純烈の今後を心配するファンもいる可能性があります。

しかし、公式発表では白川の卒業後も純烈は活動を続けると説明されています。

また、卒業発表時には新メンバーのオーディション開催も公表されました。

つまり、今回の発表はグループ解散ではなく、メンバー構成を変えながら活動を継続するための節目と捉えるのが正確です。

【プロの結論】綱ノ富士という四股名が示す白川裕二郎の人生

綱ノ富士という四股名を調べると、白川裕二郎の人生には大きく3つの転換点があることが分かります。

1つ目は、1995年の朝日山部屋への入門です。憧れの千代の富士を目指し、地元の綱島にちなんだ四股名を名乗りました。

2つ目は、けがによる相撲界からの引退と俳優への転身です。力士としての夢は短期間で終わりましたが、2002年には戦隊シリーズで俳優デビューを果たしました。

3つ目は、純烈での成功と2027年の卒業です。2007年から約20年間にわたってグループを支え、紅白歌合戦への連続出場という実績も残しました。

ここから読み取れるのは、綱ノ富士という名前が過去の挫折だけを象徴するものではないということです。

相撲時代の経験は、現在の白川裕二郎を形づくるキャリアの一部になっています。

情報を調べる際には、次の3点を区別することが大切です。

- 四股名と番付: 綱ノ富士は実在した四股名で、最高位は序二段99枚目。
- 引退と理由: 相撲引退はけがによるもので、芸能活動からの引退ではない。
- 2027年の卒業: 純烈からの卒業であり、所属事務所からの退所や芸能界引退を意味しない。

この3つを整理すれば、ネット上で見かける情報の混同も避けやすくなります。

【綱ノ富士・白川裕二郎】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:綱ノ富士の読み方は何ですか?

A1:綱ノ富士は「つなのふじ」と読みます。純烈の白川裕二郎が大相撲時代に使用していた四股名です。

Q2:綱ノ富士という四股名の由来は何ですか?

A2:横浜市港北区の綱島から「綱」、憧れの横綱・千代の富士から「富士」を取って組み合わせた名前です。本人が2026年のテレビ出演でも説明しています。

Q3:白川裕二郎の力士時代の最高位は何ですか?

A3:最高位は序二段99枚目です。1995年9月場所に初土俵を踏み、朝日山部屋に所属しました。けがによって約1年で引退しています。

Q4:白川裕二郎はなぜ相撲を引退したのですか?

A4:腰痛などの身体的な問題があり、稽古によって悪化したことが理由とされています。

Q5:白川裕二郎は2027年に芸能界を引退するのですか?

A5:いいえ。2027年3月31日に純烈を卒業する予定ですが、所属事務所には引き続き在籍します。卒業後は休養を挟み、白川裕二郎としての活動再開を希望しています。

Q6:白川裕二郎の力士時代の体重は何キロでしたか?

A6:本人の過去のテレビ出演によると、毎日ご飯を一升食べて体重105キロまで増えたそうです。


まとめ:綱ノ富士から純烈へ、白川裕二郎の新たな人生

綱ノ富士は、純烈の白川裕二郎が1990年代に大相撲で名乗っていた四股名です。

地元・綱島と憧れの千代の富士を組み合わせた名前には、力士として成功したいという当時の夢が込められていました。

朝日山部屋での力士生活はけがによって約1年で終わりましたが、その後は俳優として活動し、2007年に純烈へ参加。長い下積みを経て紅白歌合戦への連続出場を実現しました。

そして2026年6月、2027年3月31日での純烈卒業を発表。卒業後も芸能活動を続ける可能性を残しています。

綱ノ富士という四股名は、白川裕二郎の出発点を知るための大切なキーワードです。 2027年春から始まる新しい歩みにも、引き続き注目が集まりそうです。


主な参考資料:純烈公式サイト・G-STAR.PRO公式発表、白川裕二郎公式プロフィール、テレビ朝日ニュース、スポニチアネックス、デイリースポーツ、OCEANS、婦人公論.jp。

同じカテゴリの記事

朝倉 律
コンテンツディレクター 朝倉 律
プロフィールを見る →

公式発表を基準に、報道と公開情報の差分を整理して提示することを徹底しています。

おすすめの関連記事