俳優・山田裕貴さんの父親は、元プロ野球選手で中日ドラゴンズと広島東洋カープに所属した山田和利(やまだ・かずとし)さんです。1983年のドラフト会議で中日から4位指名を受けてプロ入りし、現役引退後も両球団でコーチを務めるなど、長年にわたって日本プロ野球界に携わってきました。
しかし、山田和利さんは2025年8月16日、60歳で亡くなりました。同月26日、息子の山田裕貴さんが自身のSNSで訃報を公表。約4年前からがんを患い、本人の意思で公表せずに闘病していたことも明らかになりました。2026年現在、父親の現役時代の実績だけでなく、野球少年だった裕貴さんとの関係や、俳優を志すきっかけとなった親子のエピソードにも関心が集まっています。
【山田裕貴の父は誰?】元中日・広島のプロ野球選手、山田和利さんのプロフィール
山田裕貴さんの父親は、愛知県出身の元プロ野球選手・山田和利さんです。地元の東邦高校で野球に取り組み、1983年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから4位指名を受けました。
現役時代は内野を中心にプレーし、中日ドラゴンズと広島東洋カープの2球団で活躍。選手として引退した後も指導者として野球界に残り、若手選手の育成やチームの守備・走塁指導に携わりました。
山田和利さんの基本プロフィール
- 名前:山田和利(やまだ・かずとし)
- 生年月日:1965年6月3日
- 出身地:愛知県
- 出身高校:東邦高校
- 投打:右投右打
- 身長・体重:178cm・82kg
- ドラフト:1983年ドラフト4位
- 入団球団:中日ドラゴンズ
- 主な所属球団:中日ドラゴンズ、広島東洋カープ
- 現役引退:1996年
- 逝去:2025年8月16日(60歳)
これらの選手プロフィールとドラフト情報は、日本野球機構(NPB)の個人年度別成績にも記録されています。
山田和利さんは、全国的な知名度を誇るスター選手というより、複数のポジションをこなしながらチームを支えた選手でした。プロ野球選手としてのキャリアに加え、引退後も指導者として長く球団に貢献した点が特徴です。
【現役時代の成績】中日ドラゴンズから広島東洋カープへ移籍した経歴
山田和利さんは1984年に中日ドラゴンズへ入団しました。プロ入り後、経験を重ねて出場機会を増やし、1988年には82試合に出場。内野を中心に複数の役割を担い、チームを支えました。
1983年ドラフト4位で中日ドラゴンズに入団
東邦高校から地元の中日ドラゴンズに入団した山田さんは、プロの世界で競争を続けました。
1987年には12試合、1988年には82試合に出場。1988年の成績は打率.268、41安打、2本塁打でした。翌1989年は一軍公式戦の出場記録がなく、1990年には29試合に出場しています。
1991年には広島東洋カープへ移籍しました。移籍後すぐに大きな数字を残したわけではありませんが、翌1992年には93試合に出場し、打率.282、8本塁打、29打点を記録。チームの戦力として存在感を示しました。
広島では1995年にも12本塁打を記録
広島でプレーした山田さんは、1995年に94試合へ出場。82安打、打率.270、12本塁打、53打点という成績を残しました。
その後、1996年に中日へ復帰し、同年限りで現役を引退しています。
山田和利さんのプロ野球通算成績
NPB公式記録による通算成績は次のとおりです。
- 通算出場試合:366試合
- 通算安打:227安打
- 通算本塁打:22本
- 通算打点:102打点
- 通算打率:.262
- 通算出塁率:.341
特に1992年と1995年は、広島で打撃面の成績を残したシーズンです。通算本塁打22本という数字だけでは評価しきれない、複数の役割を担う野手としての働きがありました。
なお、NPBの記録は一軍公式戦の成績です。プロ野球選手としての在籍期間全体と、一軍公式戦に出場したシーズン数は区別して見る必要があります。
【引退後のコーチ歴】中日と広島で若手選手の育成に尽力
山田和利さんのキャリアは、1996年の現役引退で終わったわけではありません。1997年から中日ドラゴンズで指導者に転身し、その後は広島東洋カープでもコーチや球団編成の仕事を担当しました。
選手としての経験を生かし、守備や走塁など、試合の勝敗を左右する細かな技術を若手選手に伝えてきました。
山田和利さんの球歴・指導歴年表
| 時期 | 所属・出来事 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 1965年6月 | 愛知県で誕生 | 東邦高校に進学し野球に取り組む |
| 1983年 | 中日ドラゴンズ | ドラフト4位で指名 |
| 1984~1990年 | 中日ドラゴンズ | プロ野球選手としてプレー |
| 1991~1995年 | 広島東洋カープ | 移籍後も内野を中心に出場 |
| 1996年 | 中日ドラゴンズ | 復帰後、現役引退 |
| 1997~2004年 | 中日ドラゴンズ | 二軍野手総合チーフコーチなどを歴任 |
| 2011年 | 広島東洋カープ | 二軍守備・走塁コーチに就任 |
| 2012年 | 広島東洋カープ | 球団編成部門を担当 |
| 2015~2021年 | 広島東洋カープ | 二軍守備・走塁コーチなどを担当。一軍コーチも経験 |
| 2025年8月16日 | 逝去 | 60歳で永眠 |
コーチとしての経歴については、日刊スポーツや広島アスリートマガジンなどが詳しく報じています。2018年から2020年には広島の一軍内野守備・走塁コーチを務め、2021年は二軍内野守備・走塁コーチとして活動しました。
2021年に広島のコーチを退団
2021年11月3日、広島東洋カープは山田和利さんの退団を発表しました。
同年まで広島で若手選手の指導に携わっており、これが公に確認できる最後のコーチ歴となります。
2025年9月、山田裕貴さんは自身のラジオ番組で、父親がプロ野球の世界を離れることになった際の電話についても振り返りました。父親からコーチの任を下りなければならないと聞き、裕貴さん自身も「自分が頑張っていかなければ」と感じたそうです。
選手として約13年間にわたり球団に在籍し、引退後も複数の役職で野球界に関わり続けた山田和利さん。その経歴は、選手と指導者の両面からプロ野球を支えてきた歩みでもあります。
【親子関係の真相】山田裕貴さんは父に憧れた野球少年だった
山田裕貴さんは、子どものころから父親の背中を追っていました。テレビでプロ野球選手としてプレーする父親の姿を見て、かっこいいと感じ、自分も野球を始めたと語っています。
スポニチや日刊スポーツのインタビュー・番組報道によると、裕貴さんは小学生のころから野球に取り組み、中学時代まで硬式野球を続けていました。
父親を超えたいという思いと野球での挫折
裕貴さんは、父親と同じプロ野球選手になることを夢見ていました。所属チームでは全国大会に出場した経験もあり、野球に真剣に取り組んでいたといいます。
しかし、中学時代に入った強豪チームでは、周囲に実力のある選手が多く、次第にレギュラーの座をつかめなくなりました。
本人は、プロ野球選手である父親の存在を意識し、周囲からも「父親がプロなのに」という目で見られることがあったと振り返っています。
父親を超えたいという気持ちが強かったからこそ、思うような結果を残せない悔しさも大きかったのでしょう。
中学時代に野球を辞めた裕貴さんは、父親の母校でもある東邦高校へ進学しました。高校3年生の夏には、母校が甲子園に出場。スタンドから応援する立場になった自分と、野球を続けているかつての仲間を比べ、涙が止まらなくなったと明かしています。
父親から言われた忘れられない言葉
山田裕貴さんが済生会のインタビューで語った、父親との印象的なエピソードがあります。
野球を辞めた際、父親から投げかけられた言葉です。
「なぜ自分でやると決めたことを自分から投げ出したんだ?」
この言葉は裕貴さんの心に強く残りました。
父親は息子に野球を強制していたわけではありません。裕貴さん自身が選んだ道だからこそ、最後までやり抜くことの大切さを伝えようとしていたのです。
高校3年生の夏、甲子園のスタンドで悔しさを感じたとき、裕貴さんは次に自分が選ぶ道では最後までやり抜こうと決意しました。
父親から野球を教わらなかった理由
意外に思われる可能性がありますが、山田裕貴さんは、父親から野球を直接教えてもらった経験がほとんどなかったと語っています。
父親がプロ野球選手だったため、息子としては野球について話すことに複雑な気持ちがありました。自分が父親に教わって上達したと思われることへの抵抗もあったそうです。
また、裕貴さんは後年、父親がプロとアマチュアの立場を意識し、家族である自分にも野球を教えることを控えていたのだと理解したと明かしています。
父と息子でありながら、野球の話をあまりしなかったという関係は、単純な親子のスポーツ教育とは異なるものでした。
一方で、父親の厳しさの裏側には、息子が自分自身で選んだ人生を歩んでほしいという思いがあったことが、裕貴さんの振り返りから伝わってきます。
【俳優を目指した理由】父を超えたい気持ちと家族の思い出
山田裕貴さんが俳優を志した理由には、父親の存在が深く関係しています。
野球を辞めた後、裕貴さんにとって父親と自然に会話できる話題の一つが、テレビや映画、ドラマでした。父親は寡黙で厳しい性格だったといい、野球について気軽に話す関係ではなかったそうです。
テレビに出れば父親を超えられるかもしれない
裕貴さんは、俳優という仕事を選んだ理由について、父親に自分の姿を見てもらいたかったという思いを明かしています。
プロ野球選手として活躍した父親と同じ道ではなく、別の分野で自分の存在を認めてもらいたい。そんな気持ちが、芸能界への関心につながりました。
済生会の2017年のインタビューでは、俳優を選んだ理由について、テレビに出る回数なら父親を超えられるかもしれないと思ったと語っています。
また、2022年6月に放送されたラジオ番組や、2025年7月の日本テレビ系「アナザースカイ」でも、野球での挫折や俳優を目指すようになった経緯を振り返っています。
特に2025年の出演では、俳優ならさまざまな人の人生を生きることができ、自分自身の悲しかった心を理解する人にもなれるかもしれないと説明しました。
つまり、俳優への転身には、父親を意識した競争心だけでなく、野球で経験した挫折を乗り越え、人間の感情を深く理解したいという動機もあったのです。
父親は息子の演技に厳しい評価をしていた
山田和利さんは、息子の俳優活動を見守る存在でもありました。
2019年にスポニチが報じたテレビ番組でのエピソードによると、裕貴さんは父親から演技について厳しい意見をもらっていたそうです。
父親からは、芝居について「もっとすごみを出せ」といった趣旨の指摘を受けることもありました。
裕貴さんは、父親が演技経験者ではないことに驚きながらも、その率直な評価を受け止めていました。
親として息子の活躍を喜ぶだけでなく、一人の視聴者として厳しく作品を見ていた山田和利さん。裕貴さんにとって、父親は俳優として成長するうえでも意識する存在だったのでしょう。
2024年には家族でラジオ番組に出演
2024年8月には、山田裕貴さんがパーソナリティーを務めるニッポン放送の番組に、山田和利さんを含む家族が出演しました。
2025年9月の放送で裕貴さんは、この家族出演について「本当に僕はいい思い出になった」と振り返っています。
父親の闘病を知っていたからこそ、家族で一緒に出演できた時間は、裕貴さんにとって特別な思い出になっていたようです。
父親と息子がそれぞれ異なる世界で活躍しながらも、互いの仕事を見守ってきた関係が伝わるエピソードです。
【2025年8月16日の訃報】山田和利さんの死去と約4年間のがん闘病
2025年8月26日、山田裕貴さんは自身のSNSを更新し、父親の山田和利さんが亡くなったことを公表しました。
山田和利さんが亡くなったのは、2025年8月16日。享年60歳でした。
訃報とともに明らかになったのが、約4年前からがんを患い、闘病を続けていたという事実です。
がんの公表を控えていたのは本人の意思
山田裕貴さんが2025年8月26日に公表したコメントでは、父親の病気について次のように説明されていました。
父は約4年前に癌を患い闘病していましたが、故人の意思により公にはせず過ごしてまいりました。
病気を公表しなかったのは、本人の意思によるものでした。
山田さんのがんの種類や具体的な治療内容、入院期間などについては、公表された情報からは明らかになっていません。
また、葬儀は近親者のみで執り行われました。裕貴さんは供花や香典についても辞退する意向を示し、父親を支えてきた球団関係者やOB、ファンに感謝を伝えています。
2025年9月のラジオで明かした父親の闘病生活
2025年9月1日深夜放送の「山田裕貴のオールナイトニッポン」では、裕貴さんが父親の死去について自ら語りました。
番組では、父親がプロ野球界を離れることになった時期や、その後にがんが見つかった経緯についても説明しています。
裕貴さんの話によると、父親はプロ野球のコーチを離れた後、病院で検査を受けたところ、がんが見つかったそうです。当初は余命半年から1年ほどと告げられていたものの、その後も約4年間闘病を続けました。
裕貴さんは父親について、次のように振り返っています。
「そこから4年、本当によく頑張ったと思うんです」
また、父親との思い出を作りたいという気持ちがあったことも明かしました。
父親ががんを患っていることは、家族以外には限られた人にしか伝えていなかったといいます。裕貴さん自身も、父親の容体が悪化するたびに覚悟を迫られる経験を何度かしていました。
2024年の家族でのラジオ出演が特別な思い出になったという発言も、こうした背景を知ると、より深い意味を持って伝わってきます。
なぜ亡くなった後に訃報を公表したのか
裕貴さんはラジオで、父親が中日ドラゴンズと広島東洋カープの両球団に所属していたプロ野球選手だったことにも触れています。
父親が球団関係者やOB、ファンに直接あいさつできないまま亡くなったことを受け、家族として感謝を伝える必要があると考え、SNSで報告したと説明しました。
訃報の公表は、単なる家族の近況報告ではありませんでした。長年にわたり父親を支えてきた野球関係者や応援してきた人たちに対する、家族からの感謝の表明でもあったのです。
2026年11月現在、山田和利さんはすでに逝去しており、現役選手やコーチとして活動しているわけではありません。父親の現在について検索する場合は、2025年8月16日の死去と、同月26日に公表された内容が基準となります。
【山田裕貴の父に関する誤解】ネット上で混同されやすい情報と事実
山田裕貴さんの父親について調べると、野球選手としての経歴、親子関係、病気に関する情報が一緒に検索されることがあります。ここでは、特に混同しやすいポイントを整理します。
父親は山田和利さんで間違いない?
はい。山田和利さんは山田裕貴さんの実父です。本人がテレビ番組やインタビュー、ラジオで父親について繰り返し語っており、2025年8月の訃報も裕貴さん自身が公表しています。
山田和利さんは2026年も広島のコーチをしている?
いいえ。広島東洋カープのコーチを務めたのは2021年までです。同年11月に球団から退団が発表されており、2025年8月16日に亡くなっています。
山田裕貴さんは父親に野球を強制されていた?
本人の発言によると、野球は父親に強制されたものではなく、自分から始めたものでした。父親に憧れてプロ野球選手を目指していた一方、野球の指導を直接受けることはほとんどなかったと語っています。
また、俳優になることも自分で決めた道でした。父親の言葉や存在が、その決断を支える大きな要素になっていたことが分かります。
【山田裕貴の父】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:山田裕貴の父親は誰ですか?
A1:元プロ野球選手の山田和利さんです。1983年ドラフト4位で中日ドラゴンズに入団し、その後は広島東洋カープでもプレーしました。引退後は両球団でコーチを務めています。
Q2:山田裕貴の父・山田和利さんは現在も存命ですか?
A2:いいえ。山田和利さんは2025年8月16日に60歳で亡くなりました。息子の山田裕貴さんが同月26日にSNSで公表しています。
Q3:山田和利さんの死因は何ですか?
A3:約4年前からがんを患い、闘病していたことが公表されています。ただし、がんの種類や具体的な治療内容などは明らかにされていません。病気を公表しなかったのは本人の意思によるものでした。
Q4:山田裕貴さんは父親と同じ野球選手を目指していたのですか?
A4:はい。小学生のころから野球を始め、中学時代まで続けていました。父親に憧れてプロ野球選手を目指していましたが、実力差や競争の厳しさを経験し、野球の道を断念。その後、俳優を目指しました。
Q5:山田裕貴さんと父親の仲は良かったのですか?
A5:裕貴さんは父親を寡黙で厳しい存在として振り返っていますが、父親は息子の出演作品を見て演技について意見を伝えるなど、俳優としての活動も見守っていました。2024年には家族でラジオ番組に出演しており、裕貴さんは後に大切な思い出だったと語っています。
まとめ:山田裕貴さんの俳優人生に受け継がれた父・山田和利さんの存在
山田裕貴さんの父親、山田和利さんは、1983年ドラフト4位で中日ドラゴンズに入団した元プロ野球選手です。広島東洋カープへの移籍や中日への復帰を経験し、1996年に現役を引退。その後も中日と広島でコーチを務め、2021年まで野球界に携わってきました。
一方、息子の裕貴さんは、父親に憧れて野球を始めたものの、中学時代に挫折を経験しました。父親から投げかけられた「自分で決めたことは最後までやり抜く」という教えは、その後の俳優人生にもつながっています。
父親を超えたいという思い、作品を見てもらいたいという願い、そして人の心を理解できる俳優になりたいという目標。山田裕貴さんが俳優を志した背景には、父親との複雑でありながら深い関係がありました。
2025年8月16日、山田和利さんは60歳で亡くなりました。約4年間のがん闘病を本人の意思で公表せずに続けていたことや、家族で過ごした最後の時間について、裕貴さんがラジオで語った内容は、多くの人に父子の絆を伝えるものとなりました。
2026年現在、山田和利さんの姿をプロ野球のグラウンドで見ることはできません。しかし、NPBに残る選手成績や両球団での指導歴、そして息子が語り継ぐ思い出から、その歩みを知ることができます。父親から受け取った言葉や経験は、山田裕貴さんが俳優として歩み続けるうえでも、大切な原点であり続けているのです。
主な確認資料・報道
- 日本野球機構(NPB)公式・山田和利さんの個人年度別成績
- 日刊スポーツ・2025年8月26日、山田和利さんの訃報
- 日刊スポーツ・2025年9月2日、山田裕貴さんのラジオでの発言
- 済生会・2017年9月、山田裕貴さんのインタビュー
- スポニチ・2023年5月、野球少年時代と父親とのエピソード
- 広島アスリートマガジン・山田和利さんの指導者歴